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ライトハウス・ファンデーション・ネパール

LHFN代表ラジュ・スンダス氏

自身ダリットの出身でありながら、2003年にバディ族のことを知り、心を痛め救出を決断。
2007年からバディ族の村へ行き、救出したいと申し出たが村人はそれを信用しなかった。
それもそのはず。多くの人身取引者がやってきては、「家族のためだ、親のためだ」といって売春宿に売るために連れていくのだ。ラジュ師がそう見られてもおかしくはない。

2年間、ラジュ師はホーカン師と共に誠意を尽くして贈り物をしたり村人と信頼関係を構築し、
やがて村人自身の口から、人身売買の事実について聞くことができた。
2009年にはじめて34人の少女たちを助け出し、その中の一人は現在アメリカで勉学に励むハンナ・バディがいた。
ラジュ師は決断早く、勇敢で、恐れ怯むことなくプロジェクトを遂行する。

しかし、彼は語る。「これは、プロジェクトではないんだ。愛なんだ。バディを助けたい、なんとかしたいという、切実な思いなんだ。
自己実現や、達成感のためではない。愛が原動力なんだ」と。
ライトハウスファンデーションで働く人々

LHFN理事長ビジェイ・ラマ氏

ラジュ師の片腕として、LHFNの理事長として活動する。
自身が持つ不動産取引のノウハウを生かして、少女たちが住む寮や事務所、今後建設予定のCCSの合同キャンパスの土地取得に大きな貢献をしている。
自身はタマン族の出身で身分で言えば中級。
しかし、彼が説明するのは現在起こってきているカーストの変化だ。
「タマン族は、国を守ることを職業とする民族。特にゴルカ兵士というネパールが誇る勇敢な男たちのいる部族だ。
イギリスとの取り決めによりゴルカ兵士はイギリス軍として出兵義務があった。
勇敢で物怖じしないゴルカ兵は重宝され、イギリス軍と共に世界中ーヨーロッパ諸国、シンガポールなどの先進国に出かけた。その美しさ、街づくりにインスピレーションを受け退役したあと作った街がポカラなどの観光地だ。
タマン族が商売を学び街づくりに挑戦し、財産を築くようになると、ハイカーストの人々はタマン族を恐れるようになった。
勇敢でお金もあり、商売の仕方を知っているタマン族が下克上を企てても、かなわないとわかっているからだ。」
ビジェイ・ラマ氏

バディガールズホーム

村にいた頃バディ族の少女たちは安心して眠る事ができなかった。
夜中になると誰かが窓から入り込んで来て身体を触らされるからだ。
でもこの寮にきた子供たちはもう大丈夫。
ある少女は笑顔でこう話す。

「ここでは夜ぐっすり眠れる。
誰も身体を触りにこないから。」

この寮に来た女の子は初日に自分だけの洋服、靴、毛布、ぬいぐるみがプレゼントされるという。
そしてその日は一日毛布とぬいぐるみを手放さないという。
村ではいつでも取り合いだったから。
ネパールではこの寮をホステルと呼び、日本人に紹介するときには「バディガールズホーム」という通称で紹介された。
現在700人ほどの子供たちが強制売春の現場から保護され、この寮に移り住んでいる。
年に2回はネパールの法律により村に帰らなければならないため、寮長は少女たちによくよく言って聞かせ、村に送り出すそう。
中には妊娠して帰ってくる子や、帰ってこない子もいるという。
心配だが法律には逆らえない。
祈りつつ見送り、また帰ってきた子達は笑顔と安心の中でこの寮の中ですくすく成長している。
バディガールズホーム

学校クリスチャン・コミュニティ・スクール

バディ族が学校に通う事は非常に難しい。まず極度の貧しさ故支払いができない。
そして、アンタッチャブル(不可触民)であるゆえ生徒からだけでなく教師からのいじめも行われるという。
バディへの過酷ないじめはバディガールズホームに救出されてもバディがバディであるという理由で続いてゆく。
そこでLHFNは救出・保護と続いてバディのための学校を作る必要に迫られた。
こうして建てられたのがクリスチャン・コミュニティ・スクール(通称CCS)だ。
現在CCSに在籍するのはバディ族の少女たちが7割、近所から通う子供たちが3割。
ネパール国内でも最高レベルの教育を提供しており優秀な子どもたちを多く輩出している。
英語教育を行なっているため在籍するほとんどの子どもたちは英語でのコミュニケーションが可能。
ここでは3歳の子から通えるプレスクールも併設されていて、しつけが行き届き、誰一人勝手に動き回ったりしゃべったりしない。
教育を受けられるありがたみが身に染みてわかっているよう。
バディガールズホーム

CCSの卒業生ハンナ・バディ

私は17才です。
サーケットのチョプラコラ村のバディ族の貧しい家に生まれました。
姉が3人、妹、弟、両親の8人家族です。
お金がなくて父の収入では子供全員が学校に行くことは出来ず、お姉さんたちはだれも学校に行けませんでした。
村の学校は私達バディ族の女の子を受け入れたがらないということもあります。
お姉さんたちはとても若くして結婚しました。
義理の兄が私の一番上のお姉さんをインドに売ってしまいしました。
兄はいつも脅すので両親は反対することも出来ませんでした。
あとの二人のお姉さんも結婚しましたが、夫たちはよく姉たちを殴りひどい扱いをしていました。
他のカーストの人たちは私達バディ族の女子を何の役にも立たない存在だと思っています。
村の男たちは私達を性の奴隷と見なしています。
私達を邪険に扱い体を触って辱めるのです。
私たちは年頃になると恐怖におののきながら暮らさなければなりません。
いつも買収宿に売られる恐怖にさいなまれていました。
私は父に学校に行かせて欲しいと頼みました。
私はついに学校に行くことができたのですが友達はほとんど出来ませんでした。
バディ族の私を皆が避けるのです。
先生たちでさえバディ族の女の子は売春して暮らしていると言って私をさげすみました。
それでも私は学校に通い続けました。
バスに乗ると運転手や車掌が私達をののしったり、体を触ってきたりしました。
登下校の途中でたくさんの男子が私をレイプしようと狙っていました。
いつも逃げ回っていました。
村では両親が子供を売ってお金にします。
家のお金も食べ物も底をつき始めると私もデリーに行って売春婦になって稼ぐしかないかなと思うのでした。
病院でも医者たちは私達を差別し悪い考えを持って私達バディ族の女子を見ました。
医者にひどい目にあわされたこともあります。
私は脳に水がたまり何度も意識が無くなり、何を話し何をしたのか記憶が無くなるため父が借金をして私を病院に連れて行った時のことです。
私の名前を医者が知らない間は医者はとても親切で父も部屋に一緒にいさせてくれました。
脳のCTスキャンをとる必要があり私がハンナ・バディという名前を用紙に記入すると医者は父を部屋の外に出し私に服を脱ぐように言いました。
治療のために必要があってのことと思い服を脱ぐと医者は私をレイプしようとしたのです。
私の体中を触り私を犯そうとしたのです。
私は大声で叫んだので医者は怖くなって服を着るように言いました。
父にその事を話すと医者は上の階級の人なので恐れて私に黙っているように言いました。
もしそんなことを言ったら逆に私たちが責められて私が治療してもらえなくなると言いました。
私は勉強してバディ族のみんなのために何か素晴らしい事をしたいと思いました。
今でもバディ族の約75パーセントは売春婦です。
チョプラコラでは結婚している女性でさえサーケットに売春をしに行きます。
村には多くのブローカーがいて若い女の子に大金と良い暮らしが待っていると甘い言葉で誘います。
私が登校中にも彼らが来たことがあります。
私は無理やり連れて行かれそうになりましたがちょうど車が近づいたので逃げて行きました。
私はこんな仕事をしなければならない状況から女の子たちを救い出したいのです。
バディガールズホーム

チャンドラカラ・バディ

チャンドラカラは6才の時インド、両親、既婚の姉、弟、妹と暮らしていました。
両親は二人とも草刈りと洗濯の仕事をしていました。
9才の、母は別の男性と結婚し、チャンドラカラと姉夫婦を残して妹を連れてネパールに帰って行きました。
姉の夫は妻を酒で酔わせてチャンドラカラと一緒に寝ると言いましたがチャンドラカラは拒みました。
すると義理の兄は怒ってチャンドラカラは殴られました。
彼女と姉はサーケットに逃げ帰りホテルに一晩泊めてもらえるように頼みました。
そこで皿洗いをして7日間滞在しました。
そこでも男たちが彼女の体を触り邪険に扱うのでそこを出てラティカイラに行きました。
そこで彼女の義理の姉と友達のスィータがネパルガングに買い物に連れて行ってくれると言いました。
義理の姉と4人の男も一緒に買い物にラウアイダに行きました。
移動中酔って吐くことはないか、と男たちがたずねました。
はい、と言うと、薬をくれました。
4錠をいっぺんに飲むように言われました。
麻薬だったのです。
警察が彼女のことを彼らに質問すると彼らの妹だと言い、ルワイダを通過するときには意識がなくなっていました。
彼らがハリドワールに来た時彼女は目を覚まし、大きな建物が見えたのでどこにいるのかと聞くと、ハリドワールのディンプルの家だと答え風呂に入るように言いました。
義理の姉とスィータが一緒についてきました。
食事をとり眠りました。
目覚めると義理の姉と友達がいました。
しばらくしてまた眠りに落ち、次に目を覚ました時には彼らはいませんでした。
彼らはチャンドラカラを10万ルピー (約18万円)で売ったのです。
事前に5万ルピーを受け取り、彼女を連れて来て残りの5万ルピーを受け取ったのです。
チャンドラカラは1年半売春宿に閉じ込められ、多い日は1日60人の相手を強いられました。
性奴隷にされていたのです。
毎日殴られていました。
進んで働けば殴られなくて済むと思い、嫌がらずに働き始めると店主は彼女に優しくなりました。
チャンドラカラはそこにいる間いつも両親に会いたくて仕方がありませんでした。
ディンプルは彼女に酒を飲ませて一度に多くの男と相手をさせました。
その後別の場所に移されそこで1日に70人から80人の相手をさせられていました。
傷の痛みを押さえるために軟膏を使っていました。
デリーのJP通り40番地の売春宿で警察が手入れを行い、彼女は知的障害者ばかりが入れられている拘置所で拘束されました。
大きな食堂があり周りには大きな木があり知的障害者たちは食事に尿を入れて出されていました。
そこには4人のラジャスタンの少女と10人のネパールの少女がいました。
その後8日間そこにいましたが知的障害者と共に過ごし、彼女自身も感覚を失い、そこで何があったのか、全く思い出すことができません。
ネパールの新聞にチャンドラカラとほかの少女たちの写真が掲載されました。
教師をしていた彼女の兄弟テクバハドゥールがその写真を見つけ、姉に伝えました。
姉とその夫がすぐに彼女を連れ戻しにインドに行きました。
チャンドラカラは23日間警察に拘束されていました。
店主は警察に5万ルピーの賄賂を渡し、店主はスナイナ(チャンドラカラの売春宿での名前)が自分を訴えて有罪にできないようにするために彼女に電線を付けて風呂に入れ、彼女は脳に損傷を受け30日間思考力が失われていました。
麻薬を投与され続け、監視カメラで監視されていました。
睡眠不足と体の酷使による疲労と麻薬でふらふらしていたので、店主は彼女はもう使い物にならないと思っていました。
彼女が健康を取り戻すと姉がネパールに連れ帰りました。
帰国の途上でガドゥワルで資金が底をつき、パンジャブで働いていた兄弟にお金を借りてチョプラコラに戻り、村人から彼女の窮状を聞いたラジュ・サンダス牧師が、2012年1月にチャンドラカラをトゥサルのホームに迎え入れました。
バディガールズホーム